海中サンゴ礁魚
 

東大リサーチフェローの潜水死亡事故の原因についての私見

JAMSTECでは、約30年間にわたり、潜水技術に関する研修事業を実施している。筆者は、この間、「潜水生理学」、「潜水障害」ならびに「潜水事故」などの講義を中心に行っているが、そのほかに、独自の観点から、事故事例の解析などを行っている。今回は、平成17年7月に起こった潜水業務中のリサーチフェロー潜水死亡事故に関して、潜水事故に関する専門的な観点から私見を述べたいと思う。

事故の概要

平成17年7月4日午前10時頃、八丈島のナズマドにおいて東大リサーチフェロー(以下、被災者と称す)が生物採取を行うために、教授以下5名の仲間と水深16mの作業ポイントを目指して潜水をしたところ、その途中でマスク内(マスクの1/4程度)に水が浸入するといったトラブルに見舞われた。そのため、被災者は同行していた教授に上昇するといった合図をしたのち、一人で上昇開始したが、その後行方不明となった。行方不明が発覚したのは、同行したガイドが教授に“1名はどうしたのか?”と疑問を投げかけた午前10時20分頃であった。関係者ならびに周辺にいた船舶により、直ちに水面を中心とした捜索が行われたが発見することができず、その後、救助要請を受けた海難救助隊のダイバーが作業ポイントから少し離れた海底に仰向けに横たわる被災者を発見した。発見時、被災者のマスクは顔にフィットしてものの半分くらいまで水が入っており、レギュレータは口から外れた状態であった。また、ボンベの残圧は150気圧で、BCには空気は入っていなかった。

ここで注目すべき点は

1.なぜマスク内に水が入っていたのか?
2.なぜマスククリアーをするのに水面まで上昇しようとしたのか?
3.ボンベの残圧がまだ150気圧あったこと。
4.BCには空気は入っていなかったこと。
5.レギュレータは口から外れた状態であったこと。

1.に関しては、調査報告書において、「マスクは本調査の直前に購入した」とあるが、通常、ダイビングショップ等、潜水器材販売の専門店で購入する場合は、マスクが顔にフィットするかを十分確認するはずであるが、もし、量販店などで購入したならば、多くの商品が梱包してあるため、フィットするか否かを確認することが不可能な場合がある。そのような場合はマスクの周辺から徐々に水が浸入することも否めない。

2.に関しては、水中でマスク内に水が浸入した時は、通常、その場でマスククリアーを行ってトラブルを回避する。しかしながら、被災者があえて上昇するといった行動をとったのは、潜水経験が乏しく、マスククリアーのテクニックが十分習得できていなかったために、それができなかったことが伺える。また、初心者がそのような状態で呼吸をした場合、誤って鼻から水を吸ってしまうことや、それを恐れて、恐る恐る呼吸をすることがある。そのような場合には、十分な換気ができず、呼吸困難に陥ることがしばしばある。さらに、一人きりになったことも、潜水暦の浅い被災者にとっては大きなストレスになっていたに違いない。その結果、上記のいずれかまたはこれらが複合的に作用し、パニックに陥ったと考えられる。

3.に関しては、パニックに陥ったという根拠を裏付ける結果であると言える。当機構の潜水研修でも、しばしばパニック行動が観察されるが、それはスノーケリング、スクーバ、いずれの場合でも同様な行動を示す。すなわち、パニックに陥ると、手足をバタつかせ、浅く速い呼吸を激しく繰り返すようになる。その結果、浮力を確保するのが困難となるばかりか、十分な換気ができずに呼吸困難に陥り、マウスピースを外す、といった行動をとる。このような状態でも、背の立つ場所やプールサイドのように捕まるところがあれば難を免れることもできるだろうが、そうでないない場合には、重大な事態に陥ることになる。また、パニック行動のもう一つの典型は、息を吸った状態でさらに息を吸い込もうとする行動をとることである。溺者は、この場合も呼吸困難に陥り、しばしばマウスピースを外すといった行動をとる。これは溺者にとって息を吐き出すことがいかに怖いものなのかを物語った行動であると言える。しかし、溺水、溺死といった状態は息を吸い込む時に水を飲むのであって、吐き出す時に水を飲むことはない。と言うことからも分かるように、潜水では、息を吐くことの重要さを周囲の者たちにも周知しておくべきである。

4.に関しては、その後の点検で不具合な箇所があったと報告されているが、その不具合は潜水中または潜降・浮上中にどのようなトラブルを発生するものなのかが明らかではない。唯一報告書の中にある記述は、「入水時に排気に手間取り、周囲の者の手助けを得ていた」が、浮上中もしくは水面でトラブルを発生したという記述はない。水面に上昇したのち、BC内に空気を送り込むことができなければ、潜水技術の未熟な者にとっては、浮力が確保できないためにパニックに陥る可能性はあるかも知れないが、それ以外にパニックになるとは考えにくい。「BCに空気が入っていなかった」と言うことは、もしかしたら、水面まで辿り着いていなかった可能性を示唆するものではないだろうか?

5.に関しては、パニック行動が起きたことを示す典型的なパターンであると推測することができる。すなわち、パニックが起きたことにより、「浅くて速い呼吸」が始まり、それにより、死腔内でのみガスが行き来をしたために十分な換気ができずに呼吸困難に陥ったと考えられる。そのような場合、水面であれ、水中であれ、ほとんどの者がマウスピースを口から外すといった行動をとる。

まとめ

今回の事故はマスククリアーがうまくできなかったことが主因となり、それに、マスク内に水が浸入したことにより、うまく呼吸ができなかったこと。さらに、一人になってしまったことの不安などがストレスとなってパニックを引き起こしたと考えられる。このようなパニック行動を起こした場合、背に立たない場所や周囲に捕まる物がない海洋の場合には、バディまたは周囲の人たちの助けを借りずにそれを回避することは、極めて困難である。そのようなことを踏まえ、学生や研究者たちが調査や研究のために潜水活動を行う場合には、あらかじめ責任者が各自の技量をしっかり把握しておくことが重要である。例えCカードを取得した者でさえ、技術面に大きな差があることも少なくないので、単に、自己申告の情報のみを鵜呑みにしてしまうことは極めて問題である。そのためにも、信頼できる指導者の下での研修や定期的かつ関係者全員で行う総合的な訓練を行うことが望まれる。

文責
海洋研究開発機構 海洋地球情報部広報課
主任 竹内 久美

 
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